不安

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何となく毎日の生活に充実感がない。

楽しいこともないし、何をやっても満足を得ることができない。

物事が思い通りに動かない。

そんな状態になったとき、人はどうしても「足りないもの」を探します。

何かが足りないから楽しくないんだ。

新しい何かさえ手に入れれば、きっと今の生活も楽しくなるはずだ。

今の現状を変えるために、一生懸命に「足りないもの」を探そうとします。

そしてそれが欲望に変わって表面に出てくる。

新しい洋服を買えば、きっと生活は変わるだろう。

欲しい車さえ手に入れば、もっと人生は楽しいものになるだろう。

生活に何かを「足す」ことばかり考えます。

しかし、新しい何かを足したところで心の充実感にはなり得ません。

なぜならば、手に入れたそのときは満足感に包まれるでしょうが、すぐさまそれは「すでにあったもの」になってきます。

新しさの感動は瞬時に消え去り、再び「足りないもの」を探しはじめる。

その繰り返しによって、どんどん心の中に執着心が芽生えてきます。

「足りないもの」を追いかけるのではなく、「要らないもの」を手放すことを考えてみる。

もしも今の現状を変えたいと思うのであれば、何かを「得る」よりも「手放す」ことが重要です。

シンプルに生きるとは、無駄な持ち物をできる限り減らしていくことです。

部屋の中を綺麗に整頓し、すっきりとした空間の中に身を置くこと。

そうすることで、不思議と心の荷物までもが軽くなってきます。

物と心は無関係なものではありません。

それは互いに影響を与え合っています。

余分な物が増えれば増えるほど、心の荷物もまた増えてきます。

たとえば、新しい車を手に入れたとします。

車が生活にとって欠かせないものならばいいのですが、ほとんど日ごろは乗る機会がないとしたら。

せいぜい、週末に近所にドライブに行くだけ。

あるいは、近くのスーパーに買い物に行くくらいしか使わない。

それでも車というのには、税金や駐車場代だってかかってくる。

まして、新車であればいたずらされたらどうしようと心配になったりもします。

夜になれば、何となく車のことが心配になってくる。

朝起きると、まずは車を見にいかなければ気がすまない。

手に入れたときは嬉しさでいっぱいでしたが、やがてそれは心配を生むのです。

明らかに無駄な心の負担が生まれるわけです。

もしも車がなければ、不要な心配をしないで済むことでしょう。

近所のスーパーに行くのは自転車があれば十分です。

その方が健康にもいいのです。

雨が降れば傘をさせばいいですし、寒いときにはコートを着ればいい。

自然を体で感じながら歩けばいいにです。

幸せを得るために手に入れたものが、実は幸せを奪っている。

そういうことが、あなたの生活の中にありませんか。

もちろん、スーパーなどが遠い、出勤に使うなど車が必要な人は持てばいい。

車が趣味の人は新車を手に入れることで人生が豊かになる。

それは、否定しません。

ただ、自分にとって必要かどうかを厳選すること。

不要なものは手放すことです。

もしも今、あなたの周りに物があふれているとしたら、何から手放せばいいのでしょうか。

まずは、あなたの周りの物を三つに仕分けることです。

一つ目は、絶対に自分にとって必要だと思うもの。

仕事に欠かせないものであったり、あるいは、自分の人生にとって大切なもの。

二つ目は、あればあった方がいいですが、なくてもいいと思えるものです。

そして、三つ目は明らかに不要だと思うものです。

この中で、一つ目のものは手放す必要はありません。

何でも捨てればいいということではありません。

三つ目は、明らかに本人も不要だと思っているわけですから、簡単に手放すことができるはずです。

肝心なことは、この三つ目に入るものは、絶対に買わないでおこうと決めること。

物があふれている人は不要なものを次々と買ってしまう傾向があります。

重要なのは二つ目のものです。

あったらいいですが、なくてもいいもの。

これを思い切って手放すことが重要です。

なくてもいいと自分ではわかっていても、ついあれこれと言い訳を考えながら捨てようとはしません。

「いつか使うかもしれない」「いつか役にたつかもしれない」「いつか捨てないでよかったと思うときが来るかもしれない」と。

この「いつか」という日が来ることは99パーセントありません。

もしもその「いつか」が来れば、そのときにまた手に入れればいいだけの話です。

思い切ってこの二番目のものを手放してみることです。

部屋の中がすっきりして、心は軽やかになる。

手放すということは、何かを失うことではありません。

それは、別の何かを手に入れるということ。

心の豊かさを手に入れるということなのです。

「質素」と「簡素」という二つの言葉があります。

何となく同じような使われ方をしますが、これはまったく意味の違う言葉なのです。

「質素」というのは、言うなれば価値の低いもので生活をすることです。

できるだけ安価なもので済ませ、物に対してこだわりを持たないという姿勢です。

たとえば、安価な湯のみ茶碗を5個買うこと。

安価な湯のみですから、割れてもかまわないと。

すなわち「質素」からは物に対する思いも生まれてきません。

また、「質素」に暮らしているからといって、無駄な物がないというわけでもありません。

たとえ安価な湯飲みであっても、必要以上にあるということは無駄意外の何物でもないのです。

「簡素」というのは、必要なものが厳選されているという生活です。

湯のみ茶碗などは、毎日使うものです。

であるからこそ、一つでもいいですから、自分が気に入った「いいもの」を持つことです。

5つも6つも要りません。

高価なものを一つだけ買い、それを大切にしながら暮らしていく。

部屋の中をできる限りシンプルにして、本当に必要なものだけにお金をかけながら生活をしていく。

これが「簡素」な生活ということなのです。

食事にしても同じです。

質素な食生活をしてはいけないと思います。

食事は体と心をつくる基本となるものです。

安くて量がたくさんあればいい。

お腹がいっぱいになればそれでいい。

そういう食生活が「質素」で「粗末」な食事なのです。

体にいいものを食べること。

季節ごとに旬のものを食べ、決して過度にならない。

そういう心がけが「簡素」であり、心身を整えてくれるのです。

私は基本的に野菜中心の食生活を送っています。

決して無駄にお腹いっぱい食べることはしません。

腹八分目に留めます。

このような「簡素」な食事方法をお勧めします。

自分が営んでいる生活を見直すことです。

不要なものは手放し、本当に必要なものだけで暮らすこと。

シンプルで質素な生活を心がけることで、心もまた自然に豊かさを取り戻していきます。

何かを「足す」という意識を捨て、何かを「引く」という意識に変えていくこと。

決して難しいことではありません。

それでも難しいと思う人がいるかもしれません。

何かを手放すことなんかできない。

どうしても欲しくなってしまう。

つい足すことばかり考えてしまう。

そんな人には「放下着(ほうげじゃく)」という言葉を贈ります。

「たった一瞬でもいいから、一切の執着心が消える時間を持つ事」。

これが放下着の持つ意味です。

時には考えるということをやめて、ぼーっとした時間を持つことです。

何が欲しいかとも考えず、何かを捨てなくてはとも考えず、何かをしなければということも忘れる瞬間。

そんな時間を持つことです。

例えば空を見上げてください。

真っ青な空には、白雲がたなびいています。

そよそよと流れてくる風を頬に感じます。

そんな空を眺めたとき、「ああ、綺麗だな」と心が感じます。

この一瞬には、一切の雑念が取り払われている。

ただ、空の美しさだけが心にしみ込んでくる。

ぼーっと空を眺める時間。

あるいは一輪挿しに咲く花に見とれる時間。

あとえ、1分でも30秒でもかまいません。

すべてのことを忘れ、何も考えないほんの少しの時間。

そんな時間こそが大切なのです。

どんなに忙しい日々を送っていても、それくらいの時間は誰にでも簡単に取れるはずです。

よく「ぼーっとしている時間など無駄だ、もったいない時間だ」という人がいます。

きっとそういう人は、常に雑念に囚われているのだと思います。

「ぼーっとする」無駄のすばらしさに気づくことなく、不要な執着心にばかり目を向けている。

そこから、「簡素」な生活は生まれてきません。

何かを「足す」という発想しか頭には浮かんできません。

日常生活の中にある空白のような時間。

そんな時間に身を置くことで、手放すべきものが見えてくると思います。

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「知足」という有名な言葉があります。

一度は耳にしたことがあると思います。

「足を知る」ということ。

今、自分が持っているものに満足する気持ちを持つということです。

むやみに欲しがることなく、今のもので十分だという心を常に持つということ。

それがすなわち、人生を豊かにしてくれる。

人間の物欲はとどまることを知りません。

10のものを手に入れれば、そこで満足することなく100のものを求めるようになる。

必要がないとわかっていても、自分に言い訳をしながら手に入れようとする。

もしもこのような物欲の渦に巻き込まれてしまったら、永遠に満足感を味わうことができなくなってしまいます。

終わりのない物欲の渦。

それはまるでアリ地獄の如く襲ってきます。

どこかで自分自身に歯止めをかけなければ、物欲に支配された人生を歩むことになる。

ものを得ることがすなわち幸せであるという考えに陥ってしまいます。

何かを手に入れたいという気持ち。

もっとたくさん欲しい、新しいものが欲しい。

そんな気持ちは誰しもがもっています。

そしてその欲望をさらに喚起するような世の中です。

テレビや雑誌には、常に新しく魅力的な商品が並べられている。

「流行」という言葉を巧みに操りながら、購買意欲をかき立てる。

それは企業が発展するための手段でもありますから、安易に否定することはできません。

ただし、その企業が起こす風に安易に流されないことが大事だと思います。

本当に必要なものは買えばいい。

長い間欲しいと憧れていたものならば買えばいい。

それまで我慢する必要はありません。

新しく魅力的な商品が出てくれば、やはり心は惹かれるものです。

「あんなものがあればいいなあ」という欲望も湧いてきます。

しかし、私はその欲望に囚われることはまずありえません。

欲しいという気持ちは否定はしない。

人間ですから当たり前の感情です。

ただし、欲しいと思った瞬間は、すぐに過去の心として流れていく。

欲しいと思った心にさえ執着をしません。

この感覚を身に着ければ、物欲の渦に巻き込まれることはないのです。

例えば会社の帰り道に、何か魅力的な洋服を目にしたとします。

「ああ、素敵だな、欲しいな。」という気持ちが湧いてくる。

これは自然な感情です。

しかし、今月はお金に余裕がないから、すぐに買うのを諦めます。

そして帰りの電車に乗る。

電車のなかではまだ、その洋服がまだ目に浮かびます。

「やっぱり欲しいな」と。

それでも、電車を降りるときにはもう忘れるように心がけることです。

とにかく一旦、それが欲しいという気持ちを忘れてしまうこと。

欲しいという気持ちをずっと引きずるとをやめること。

すなわち、一つひとつの欲望をどんどん受け流す癖をつけることです。

第一、ずっと「あの洋服が欲しい」と考えている時間こそ、無駄な時間だと思いませんか?

次々と湧き出てくる物欲をなくすことはできなくても、そのつど受け流すことはできるものです。

一度受け流しておいて、それでも必要だと思うのであれば、そのときに買えばいいことです。

何も焦って買う必要はありません。

執着心を取り除くことで、自分にとって必要なものはある程度見えてきます。

例えば今欲しいものが10個あるとする。

それらをしばらく放置しておきます。

心の隅っこにその10個を押してやっておく。

ある程度時間が経った後に、その10個を取り出してみてください。

すると、10個あったものが5個は、もうどうでもよくなることに気が付くと思います。

残りの4個は今すぐ必要でないことに気が付く。

今必要で本当に欲しいものは実は10個のうち1個なのです。

では何が必要で何が不要なのか。

それを判断する準備はあるのか。

その基準はあくまでも自分自身の中にある。

他人が決めることでもなく、流行に任せることでもなく、自分自身が判断する力を持つことです。

女性はいくつものバッグを持っています。

確かにたった一つのバッグで事足りるわけではないでしょう。

社会人ともなれば、仕事用とプライベート用、そしてフォーマルな場所に使うもの。

最低は3つくらいのバッグは必要だと思います。

裏を返せば3つのバッグに少々予備があれば十分なのです。

それにお気に入りの「いいもの」を持っていれば本当は十分なはずです。

仕事用のバッグが壊れてしまったら、そのときに買い換えればいい。

プライベート用のものでさえも、そんなにたくさんは必要がないのではないでしょうか。

合わせるべきものはその日に着る洋服よりも「自分」でなければならないのでしょうか。

自分が気に入っているバッグ。

自分に似合っているバッグ。

そういう目で厳選したものだけを持つ事。

「物」が主人公ではなく、主人公はあくまでも自分であることを忘れないことです。

少し理屈っぽくなりましたが、物欲に流される人というのは、自分ではなく物を中心に考えているという人なのです。

ある女性がいました。

とても洗練された服装をしていますが、決して高価な洋服ではありません。

生活も質素で、無駄のものを買うこともしません。

あるとき、友人がこう聞きました

「もっとおしゃれな洋服を着たいと思わないの? ブランドのバッグが欲しいと思わないの?」と。

彼女はこう答えました。

「本屋さんに行って、値段を気にすることなく単行本が買える。 文庫本ではなく、単行本を買うことができる。私はそれだけで十分幸せなの。」

すばらしい女性だと思います。

少なくとも、彼女は自分の人生にとって何が大切なのか、何が必要なのかをよく知っている。

1500円のランチを食べるより、一冊の単行本を買うことを選ぶ。

それこそが自分にとって有意義なことであることを知っているのです。

つまり、自分の人生がしっかりと見えている人なのだと思います。

物欲のコントロールはその人の力量に委ねられている。

そのように考えます。

「縁」という言葉があります。

これは主に人と人との縁を言うのですが、私は人と物にも縁があると思っています。

今、自分の周りにある物。

それが自分で買ったのであれ、誰かからもらったものであれ、縁があって私のところにやってきた、そのように捉えます。

すでにパソコンを持っているのにもかかわらず、新商品が出ればすぐに買い替える。

まだ3年しか乗っていない車も、新車が出れば買い替えたくなる。

そんな付き合い方に慣れてしまえば、物に対する愛着などなくなってしまいます。

たとえ壊れたとしても、修理をすれば使えるものもたくさんあるはずです。

せっかく縁があって自分のところに来てくれたものなのですから、少しの愛着を持つことが大切だと私は思います。

物を大切にすることは、すなわち命を大切にすることです。

物を修理することは、自分の心を修復させることに繋がる。

もちろん、すべての物を修理することはできませんし、すべての物を「見立てる」必要もありません。

それでも、もしかしたらまだ使えるかもしれない。

そう思う心を持っていることです。

すぐに買い替えるのではなく、もう少し使える手立てを考えてみる。

それが、縁あって自分のところに来てくれた物に対する愛情ではないでしょうか。

学生時代から使っている万年筆。

何度もペン先を交換しながら使っていた。

でも30年も経つと、さすがに使えなくなってしまいます。

その万年筆は簡単には捨てることはできないでしょう。

一本の万年筆に対する愛着、数えきれないほどの文字を書いてきた万年筆。

自分の喜びや悲しみをしたためてきた万年筆。

それはまさに自分の人生の来し方そのものなのです。

そして、その万年筆にはすでに自分の心が宿っている。

物にはそういう部分もあるのです。

そんな気持ちは誰もが持っている。

その気持ちを捨ててはいけないということです。

縁あって自分のところにやってきた物は、自分の人生のどこかで一体化している。

そんな心を持てば不思議と物欲は減っていくものです。

それもまた「知足」への道しるべとなるのでしょう。

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日々に抱えている心配事というものは、実はそれほど大きなものではないと思います。

一つひとつを見れば、それは大したことではありません。

たった一つの心配事を一日中考え続けていることなどないのです。

ただし、一つの小さな心配事がたくさん集まれば、それは大きな不安感となって襲ってくることがあります。

そうなったときに、小さかった心配が大きな悩みに育ってしまう。

心配が心にとどまらないうちに、一つひとつをつぶす努力をすることが大事です。

例えば懸念事項というものがあります。

やらなければ、ならないこと。

解決しなければならないこと。

それは仕事においても日常生活においても常に存在しています。

こうした懸念事項は、思いついたそのときにこそ片付けることです。

例えば、金曜日までにつくらなければならない書類があったとします。

取り掛かれば1時間ほどで、できるものです。

今日はまだ月曜日、そんなときにまだ月曜日だからいいやと投げておくとおく人がいます。

金曜日が締め切りなのだから、木曜日にやればいいやと。

ところがやるべき仕事は日々に生まれてきます。

火曜日になればまた金曜日締め切りの仕事が出てくる。

翌日には急ぎの仕事が言い渡される。

そうしているうちに、仕事がどんどん溜まり、それがストレスになって襲ってくるのです。

一つひとつの仕事は大したことでなくても、それが魂になってくればとても処理が追いつかなくなる。

ああ、月曜日にやっておけばよかったと後悔しても遅いのです。

主婦の家事についても同じです。

やるべきことは次々に現れてきます。

そろそろトイレットペーパーが切れるな。

お風呂場の電球も一つ切れているな。

そういえば、子どもの風邪薬がなくなったな。

早く家賃も振り込みにいかなくちゃ。

このように、ちょっとした懸念事項が次々と生まれてきます。

そういうものを溜め込む人というのは、すべてを後回しにしようと考えます。

せっかく商店街に買い物に出かけたのに、薬を買うために薬局に行くことをしません。

今日は面倒だから、また今度にしよう。

電球の一つくらい切れていても気にしないでいいか。

少し足を延ばすだけで解決するのですが、そのちょっとした行動を起こさない。

そうしている間に、やらなくてはならないことがどんどん溜まり、知らず知らずのうちにストレスを感じるようになるのです。

トイレットペーパーが切れるくらいでストレスにはなりません。

そんなことは心配でもなんでもない。

しかし、多くの懸念事項が溜まってくると、それが心配事につながる危険性もあるのです。

心配事の少ない人というのは、一つひとつの小さなことにきちんと対処しています。

やれることはすぐにやる。

明日という時間を考えるのではなく、今日という日に行動に起こす。

すぐに行動に移すことで、小さな問題を後回しにはしません。

そうすることで、いつも心がすっきりとしている。

すっきりとしている心には、心配事は近寄ってきにくいものです。

ほとんどの心配事というのは、初めは小さな種のようなものです。

まだ芽が出ていない種。

そんあ心配の種が芽を出さないうちに潰しておくことで、心配という雑草が生えなくてすむのです。

そのままにしておくから、心配事はどんどん成長することになる。

そしてやがては心配の草が集団になって、荒れ果てた心を作り出していくのです。

あなたを取り巻く小さな心配。

あるいは、まだ心配にも育っていないような懸念事項。

それらを一つひとつ潰してください。

すぐに行動を起こしてください。

そしてもしも自分の力では潰せないものがあるとしたら、それは放置しておけばいい。

大抵のものは時間が自然と解決してくれるものです。

どうしようもない心配事は少しの距離を置きながら眺めていればいいのです。

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些細な心配からはじまって、少し厄介な心配まで私たちはたくさんの心配事を抱えているものです。

心配しても仕方がないことはわかっていても、それでも心配になってくる。

人間の心とはそういうものです。

さて、この心配というものは一体どこに存在しているのでしょうか。

過去、現在、未来ということを考えたとき、全ての心配は未来の中にあるのです。

過去の心配は、既に過ぎ去ったものですから、もうどうすることもできません。

例え心配していたとおりのことが起こったとしても、起こってしまったことは仕方がありません。

それに対して、手立てをしていくしかない。

そして手立てをはじめることで、それは心配というものではなくなります。

自分が望むものがベストであり、それが叶わなかったら、落ち込まないで、次にセカンドベストをやればいい。

「心配」が「やらなくてはならないこと」に変化する。

そうなれば、意外と気が楽になるものです。

漠然とした相手ではなく、相手の姿が見えるわけですから。

そういう意味で心配は、過去の中には実は存在していないのです。

全ての心配は、未来という時間の中にのみ存在しています。

明日はこれができるだろうか。

来週の仕事は上手くいくだろうか。

未だ来ていない時間の中にこそ心配は宿っています。

言うなれば、全ての心配は「先のこと」というわけです。

そしてそれは、今という瞬間の中では消え去っています。

明日のことが心配だとしても、その明日が来ればその心配は感じなくなるものです。

例えば、来週野球の試合があるとします。

大切な試合で、どうしても勝ちたいと思っている。

十分な練習は積んできたつもりでも、やはり心のどこかで、心配する気持ちが生まれてきます。

エラーをしたらどうしよう。

一打席もヒットを打てなかったらどうしよう。

もしも、自分のせいで試合に負けてしまったらどうしよう。

試合のことを考えれば考えるほど、新たな心配の種が見つかる。

このように、緊張感から生まれる心配事は誰しも経験していると思います。

その心配は試合が始まるその瞬間までつきまとっています。

しかし、プレイボールの宣告がなされたその瞬間に、それまでの心配はすーっと消えてなくなります。

どうしてなくなるのか。

それは、今という瞬間に心が集中するからです。

一球一球のボールに全神経が集中している。余計なことを考えずに、心が試合に集中している。

自分自身が野球そのものになり切っているという状態なのです。

つまり、未来にやってくる心配事は、それがやってきた瞬間に姿を変えるのです。

「三世」という言葉があります。

三世は「過去」、「現在」、「未来」のことをいいます。

この中で一番大切なのは、「現在」です。

先に述べましたが、過去はどうすることもできない、未来のことは誰にもわからないことだからです。

私たちが生きるべきは「今」というこの瞬間なのです。

過去に囚われることなく、未来に不要な思いを馳せることなく、今というこの瞬間にすべての心を尽くしていく。

時は常に移ろいでいくものです。

例えば、今あなたはこの小論文を読んでいます。

しかし、上記内容を読んでいたときのあなたは過去のあなたです。

そして、これからの小論文を読むあなたは未来の姿です。

呼吸にも同じことが言えます。

息をして吐く。

吸っている瞬間は現在ですが、その息を吐いた瞬間に吸ったことは、すでに過去のことになる。

大切なものはどこにあるのでしょう。

それは前に述べたとおり、未来のことではありません。

今読んでいる、この一行こそが最も大切な瞬間なのです。

今というこの一瞬に意識を集中させてください。

今やるべきことをやり、それだけに目を向けること。

過ぎ去ったことに執着することなく、未だ来ない時間にいたずらに怯える必要はありません。

すべてのものは過去のものになります。

また、望むと望まないと未来は必ずやってきます。

どんなに嫌な事や苦しいことがあっても目の前でパチンと手を叩けば、次の瞬間が必ず来るものです。

気持ちの切り替えを図って、今という瞬間だけを見つめることです。

目の前に、長い階段があります。

その階段を前にして上ることを諦める人もいます。

階段の先には何が待ちつけているのか。

それが心配で上ることをためらっている。

もしかしたら、すばらしい風景が広が手いるのかもしれませんが、階段の上の世界を案ずるあまり一歩を踏み出そうとはしない。

その姿こそが過去の世界に執着し、現在を生きていないというものだと思います。

目の前にある階段を一歩、一歩上ってみることです。

上ることだけに心を集中させ、一生懸命に歩んでいくことです。

そして途中で来た道を振り返ってみる。

そこにはきっとこれまで見た事がないような世界が広がっている。

自分自身の歩みを全身に感じることができるでしょう。

これが生きているという実感です。

あれこれと考えずに、とにかく今という一瞬を一生懸命に頑張ること。

その積み重ねによって、結果は自然についてくるものです。

今という瞬間を頑張れる人は、明日も頑張ることができる。

今を頑張ることができない人は、いつまでたっても頑張ることはできません。

「今日やらなくても、明日頑張ればいいや」と思う人は、明日になると同じ言い訳をします。

そうして、何事も頑張ることなく人生を終えていくことになります。

目の前の階段をまず、一歩上ることです。

初めの一歩を踏み出した瞬間に過去への囚われはなくなります。

と同時に未来への心配も遠のいていく。

100段もある階段でも、最初の1段を上ることで、もうすでに半分上ったのと同じようなものです。

今という瞬間を大事にすることです。

心配事は現在にあるのではなく、まだ来ぬ未来の中にある。

それはどうしてかというと、未知のものに対する不安があるからでしょう。

自分が経験をしてないことに対しては、あれこれと心配するのは当然のことです。

例えば、転職をする人が増えてきました。

これまでの会社から変わるのですから、心配するのは当たり前です。

新しい仕事にすぐ慣れるだろうか、実績は上げることができるだろうか、そんな心配は、新しい世界にはつきものです。

でも、冷静になって考えれば、この手の心配は一生懸命に仕事をしていく中で自然と消滅するものです。

これまでの自分の経験も活かしながら、とにかくやるべきことに集中する。

そうするうちに、未経験のものは経験に変わっていきます。

具体的に解決策は見いだせるものです。

ところが、未知の人間関係に対する心配は、そう簡単には消えることはありません。

なにせ相手のあることですから、自分の努力ではどうしようもないこともあります。

転職をしたり、あるいは同じ会社の中でも部署が変わったりすると、人間関係への心配はどうしても生まれてきます。

「会社の仲間に溶け込めるだろうか」、「新しい部署でうまく付き合っていけるだろうか」同じ未知のものでも、人間はそれこそ千差万別ですから、予想もつかなかったことも起きるでしょう。

新しい人間関係への不安や心配。

それを抱えている人がたくさんいます。

それに対しての答えとして「とにかく、笑顔であいさつをすること」があげられると思います。

「朝に会えば「おはようございます」、帰り際には「お疲れ様でした、お先に失礼します」と言う。

それも大きな声でいうことです。

そんなの当たり前だと思われるかもしれませんが、そうであるならばこれを実際に実行している人はどれぐらいいるでしょうか。

私が見る限り、意外と少ないと思います。

朝にあいさつををするのは当たり前です。

しかし、小さな声でうつむきながら「おはようございます」と言うのは、あいさつとは言えません。

「おはようございます。」という言葉の中には、相手に対する思いやりが含まれています。

「今日もお早いですね、お風邪など引かれていませんか、お互いに一日元気でがんばりましょうね」などです。

そんな気持ちを凝縮させた言葉が「おはようございます」なのです。

もしもうつむき加減に小さな声で言ったとしたら、この心は相手に通じるでしょうか。

通じるはずがありません。

人の声はコンピュータから出てくる声ではありません。

発する人の心が詰まっている声なのです。

相手の声を聞いただけでも、その人の心の健康状態はわかるものです。

ですからこそ、大きな声で、笑顔で挨拶をすることが大事なのです。

挨拶こそが人間関係の始まりであり、お互いの心が通じ合うものだと私は思っています。

相手のことを思って慈しむ気持ちを込めた言葉を送る。

和やかな笑顔をもって、心から挨拶を送る。

ただそれだけで、周りの人のこころは開くものです。

未知への世界へ飛び込むならなおさらです。

初めて会う人に対しても、笑顔で大きな声で「よろしくお願いします」と言ってみてください。

中にはぶっきらぼうな返事をする人もいるかもしれません。

それでもかまいません。

「和顔愛語」を続けていれば、あなたをとりまく環境も必ず穏やかなものになります。

確かに未知の人との付き合いは心配のなるでしょう。

どんな人なんだろう。

自分を受け入れてくれるだろうかなど。

そして、世の中にはいとんな個性をもった人がいる。

10人いれば10通りの表現があるものです。

それでも私は、こちらが「和顔愛語」をもって接して、それを拒否する人を見たことがありません。

表面的には格好をつけていても、心の中では受け入れている。

それが人の心と言うものです。

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心配と不安というものがあります。

これは一見同じように思えますし、また、ある意味では繋がっている部分もあります。

しかし、別のものと私は捉えます。

不安感というのは、得てして実体のないものだったりします。

そして現在ばかりではなく、将来にわたって襲いかかってくるようなものではないでしょうか。

それに比べ、心配というのはごく身近なところにあります。

それは非常に具体的なもので、まさに現在や近い未来、明日であったり明後日であったりという時間の中に存在している。

一つひとつを良く見れば、それは小さな心のトゲのようなものかもしれません。

例えば「心配性」という言葉があります。

つい小さなことでも心配になる。

心配しなくてもいいものにまで心が行ってしまう。

これは言い換えれば癖のようなものです。

ですから、「心配症」と書くのではなく「心配性」と書くわけです。

もう一つの「不安症」というのはもっと根深いもので、それは病にも繋がっていく恐れがあるものです。

そのように考えれば、心配と不安感の間には若干の差があると思います。

自分は心配性だと思っている人。

少しのことでも気になって、つい心配になってくる。

日がな一日、細かいことを心配してばかりいる。

何とかそんな自分を変えたいと思っている人も多いでしょう。

まず言えることは、心配性は決してマイナスのことばかりではないということです。

例えば、私は誰かと待ち合わせをしたとき、必ず10分前には着くように心がけています。

10分前に必ず着くようにしていると、結果として15分前に着くことがほとんどです。

どうしてそうするのか。

それは、万が一電車が遅れたり、不慮のことが起きたりしてはいけないと思い「心配」しているからです。

多少電車が遅れたとしても時間に余裕をもって出かければ大幅に遅刻すことはありません。

何かあったら遅れてしまうという心配があるから早めに家を出る。

心配することがあるのであれば、それをなくすために用心深い行動をすればいい。

何も行動することなしに、ただ「こうなったらどうしよう」「失敗したらどうしよう」と悩むだけでは何も解決しません。

「心配」というのは「心を配る」と書きます。

あれこれと心を配ってばかりいる。

心の中で考えれば考えるほどに、心配はどんどん大きくなっていく。

それが、心配を生み出す原因なのです。

心を配っているばかりではなく、まずは行動に移すことです。

例えば明日、大切な仕事があるとしましょう。「上手くいくだろうか」「失敗したらどうしよう」仕事をしていれば、そういう心配事は日常的にあるものです。

明日の仕事が心配で夜も寝れない。

こんな精神状態だとうまくいくものもうまくいかないでしょう。

心配するだけで物事は解決しません。

心配する暇があったら、できる限りの準備をすることです。

明日の仕事のために、今考え得るあらゆる手立てを講じること。

もうこれ以上は準備をすることはない。

そう思えるところまでやりきることです。

もしもそこまで準備万端に整えることができれば、心配はすっとなくなるものです。

「ここまでやったんだから、後は天命に任せるしかない」と腹をくくることができます。

万が一、上手くいかなかったとしてもやり切ったという満足感はきっと残る。

要するに心配するということは、ギリギリまでの努力をしていないという証拠だともいえるでしょう。

「石橋を叩いて渡る」という言葉があります。これは心配性の人を表す言葉です。

しかし、この言葉は悪い意味ではないと思います。

この石橋を渡っても大丈夫だろうか、そう心配するからこそ、大丈夫であることを叩いて確認する。

そうして自分自身で確認するという行動をとることで、よし、これは大丈夫だと堂々と渡ることができる。

自分の身を守るための用心です。

心配ばかりしている人は、橋が大丈夫かどうかも確認することなく、ただただ「崩れたらどうしよう」と渡ることを躊躇します。

心配する前に、まずは自分で確かめることが大事なのです。

何も確かめることなくわたる人もいるでしょう。

明らかに危ないと思われても、大丈夫だと自信満々に渡る。

挙句の果てには、橋は崩れ落ちてしまう。

これは度胸があるとか、自信があるとかいうものではありません。

ただ用心深さや分別に欠けた人です。

世の中にはいろんなリスクがあります。

外に出かければ風邪がうつるリスクも高まりますし、電車が遅れるというリスクもあります。

すべての危険を避けることなど不可能です。

そうであるかといって、そんなリスクを心配ばかりしていても仕方がありません。

風邪がうつらないように、マスクをして出かける。

電車が遅れても間に合うように早めに出かける。

そういう準備を日々心がけることです。

そして準備を整えたとしても、どうしようもないことがあります。

マスクをしてうがいを心がけても風邪をひくことはあるでしょう。

それはもう諦めるしかありません。

そこまで、完璧に準備をすることはできないのですから。

やるだけやったら、後は野となれ山となれ。それくらいの気持ちを持つことも必要ではないでしょうか。

今、あなたに心配事があるとすれば、それを書き出してみてください。

そして、一つひとつの出来事に対して自分ができることがあるかどうかを考えることです。

やるべきものが見えたなら、すぐに行動に移すこと。

心を配ってばかりいないで、ともかく行動すること。

行動している最中に心配は顔を出さないものです。

自ら行動することで薄らいでいく心配がある一方で、自分が行動を起こせないような心配もまたあります。

その大きな心配の一つが、家族に対しての心配です。

田舎に暮らす両親は元気にしているだろうか、体は大丈夫だろうか、困っていることはないだろうかなど心配にはなりますが、たびたび様子を見に行くこともできません。

せいぜい電話で、声を聞くことくらいしかできない。

あるいは、一人暮らしをしている子どものことを心配する。

ちゃんと食事はしているだろうか、風邪などひいていないか、お金はあるのだろうか。

心配しても、してやれることはありません。

心配しても仕方がないことは分かっていても、それでも心配になってくる。

それが親心であり、子どもが親を思う気持ちなのです。

そういう肉親に対しての心配は誰もが持っているものです。

そしてこの心配からは、あえて目を背ける必要はありません。

なぜならば、それは愛情から生まれる心配だからです。

愛するがゆえにその人のことを心配する。

人間として当たり前の感情であり、それはとても美しい心だと私は思っています。

たとえ、何もできないとしてもただ遠くの空から見守っている。

きっとその心は親や子どものところに届いていると思います。

家族が心配してくれている。

その気持ちが十分にわかるからこそ、きちんとした生活をしようと心がける。

子どもたちに心配をかけないようにと、健康に気を配る。

そばにいなくても、家族が自分に心を配ってくれている。

そんな安心感に包まれることで、人は強く生きていけるのだと思います。

親が子どもを思う気持ち。

子が親を思う気持ち。

それはいくつになっても変わることはありません。

深い愛情がある限り、その気持ちは永遠なものなのです。

こんなエピソードを何かの記事で読んだことがります。

Aさんは母親の手一つで育てられました。

母親は一生懸命に働いて一人息子を育てました。

経済的には貧しい家族でした。

それでもAさんは努力を重ね大学に進学しました。

アルバイトで学費を稼ぎながら食事代を削って勉学に励みました。

そうした努力が実り、Aさんは自ら立ち上げた会社に成功するのです。

成功を収めたAさんは、久しぶりに田舎に住む母親のもとを訪ねました。

運転手付きの高級車に乗り、高価なお土産をいっぱい抱えて母親に会いに行きました。

母親は立派になったAさんを見て、心の底から喜びました。

母一人子一人のせいで、随分とAさんには苦労をさせてしまった。

愛情はあっても、何もしてやることはできなかった。

いつも母はそんな思いを抱えながら生きてきたのでしょう。

久しぶりの実家で暖かい時間を過ごしたAさんは、帰り支度をしていました。

するとそこに母が来て、Aさんの手に何かを握らせたのです。

Aさんの手の中には、くしゃくしゃになった千円札が一枚入っていました。

「これで、栄養のあるものでも食べなさい」

母はそう言いました。

相当な年収を得るようになったAさんにとって、それはあまりにも小さな金額です。

しかし、母にとっては大切なお金です。

その大切な千円札を母は愛する子どもの手に握らせた。

子どもに美味しいものを食べさせてやりたい。

そんな思いが詰まった千円札でした。

母親の愛情と心配する気持ちがいっぱい込められた一枚の千円札。

Aさんはそのくしゃくしゃの千円札を肌身離さず持っていたと言います。

親の愛情はこういうものだと思います。

もし、あなたが抱えている心配事が愛情から生まれているものだとしたら、その心配は大切に持っていることです。

たとえ何かをしてあげることができないとしても、その気持ちはきっとその人のところに届いている。

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漠然とした将来に対する不安感。

つかみどころのない雲のような不安感。

それは年齢に関係なく私たちを襲ってくるのです。

言うなれば、そのような不安感は20代の人も40代の人も、60歳を過ぎた人の心にも襲ってきます。

具体的な不安材料は変わってくるのかもしれませんが、その本質は年齢によって変わるものではありません。

とは言っても、やはり若いころには不安に対する耐性は強いものです。

同じような漠然とした不安を抱えていても、若いころにはそれを跳ね返す力があります。

では、その不安を跳ね返す力とは何なのでしょう。

体力や気力というものも、もちろんあります。

しかし一番の力は、目の前にやるべきことがたくさんあるという現状だと思います。

将来の自分がどうなるのか、幸せな人生を歩むことができるのか。

若いころにも時としてそんな不安が襲ってきます。

しかし、その不安とばかり付き合っている暇などありません。

ふと不安が襲ってきたとしても、明日になれば会社に行かなければならない。

やるべき仕事が山積みしている。

こんな雑事の中に、いつしか不安は埋もれてしまう。

決してその不安がなくなったわけではありませんが、とりあえずは考える時間は減っていきます。

夜になってふと不安になったとしても、明日の朝には子どもたちのお弁当をつくらなければならない。

あれこれと不安材料を考えているより、まずはお弁当の中身を考えなければならない。

そんな日常生活の中に、不安は少しずつ埋もれていく。

やるべきことが目の前にある、これが若いころの特権であり、幸せなことだと思います。

ところが歳を重ねていくごとに、どんどんやるべきことが減っていきます。

子どもたちは独立し、家の中には夫婦だけになる。

まして会社を定年退職すればやるべき仕事はすっかり消えうせてしまう。

会社にいたときには、やるべき仕事に追われる毎日で早くそこから開放されたいと願っていたのに。

ところが、いざ仕事から解放されると、何もやるべきことをもたない自分に気が付く。

何かとても大切なものを失ってしまったかの如く、漠然とした不安が一気に吹き出てきます。

これは、あらたに生まれてくる不安ではありません。

もともと心の中にあったものが、持て余した時間で噴出してきただけなのです。

「やるべきことがない」これは人間にとって最も辛いことの一つです。

どんなに辛い仕事でも、やるべきことがあるというのは幸せなことです。

辛いことに立ち向かうことで、生きていることを実感することができる。

やるべきことがないということは、生きている実感さえも奪ってしまいます。

そして「暇」な時間が余計なことを考えさせることになる。

やがて漠然とした不安感に心が蝕まれていきます。

余生の不安を消し去る。

「余生」という言葉が多く使われています。

もう仕事もせずに、社会の活動に参加することもなく、ただ死んでいくのを待っているだけの時間。

余りの人生。

そんな意味が込めれれた言葉です。

人生の中で「余生」などという時間はありません。

余りの人生などあるはずがない。

会社は定年退職しても、人生に定年はありません。

もしも、人生に定年退職があるとすれば、それは「寿命」が尽きたとき。

すなわち死を迎えたときです。

命のある限り、私たちは生き抜いていかなければなりません。

「余生」という言葉を隠れ蓑にして、ただ漫然とした人生を送る。

それは本人だけでなく、周りの人間も幸せにはさせない。

自分がやるべきことは何か、まずはそれを見つけ出すことです。

これまでの「やるべきこと」は会社から与えられたものでした。

あるいは家族を守るために必要なものでした。

外から「やるべきこと」を与えられることに慣らされていた。

しかし、今度は自分で「やるべきこと」を探す努力をすることです。

そのために、これまでの考え方からの方向転換を図ることです。

これまでの仕事には明確な目的がありました。

第一には仕事をすることによって、生活費を獲得することです。

少しでも給料が上がるように努力する。

家族を守るために頑張る。

あるいは会社の中で評価されるために頑張る。

そこには、明確な目的意識があったはずです。

60歳も過ぎれば、この目標を少し変えてみることです。

自分だけのためではなく、自分の家族のためだけではなく、社会のために尽力してみる。

全てを投げ打って社会に尽くすということではありません。

自分が持っているほんの一部の力を社会貢献のために使うこと。

仕事の対価を100望むのではなく、70になってもいい。残りの30は社会貢献として考えることです。

定年退職後にボランティア活動に精をを出す人たちもたくさんいます。

その気持ちはすばらしいと思うのですが、私はなにがしかの対価を得る方がいいと思います。

ボランティアだけではなかなか長く続くものではありませんし、またお金が一切介入しないことは、美しいように見えますが社会に対する責任感が薄れていってしまいます。

金額は少しでもいいですから、対価を得るということが気持ちに張りを生むことになるのです。

「どうして働くのか」と聞かれたとき、若いころなら「自分の生活を豊かにしたいから」と答える、それは当然のことです。

自己中心的な答えにも思えますが、若いころにはそれでかまわないと思います。

しかし、60歳を過ぎて同じ問いかけをされたならば、そこには若いころとは違う答えを持っていなければなりません。

「自分の生活も大事ですが、半分は社会貢献への恩返しをしたい」と。

こう思える気持ちが、人生を豊かなものにしてくれる。

すべての自利をすてることはできなくても、他利の部分を少し増やしていく。

そういう考えに方に変わったときに、新たな「やるべきこと」が見えてくるはずです。

そして、目の前に「やるべきこと」が見え始めたとき、漠然とした不安は心の陰に隠れていくのです。

若いころと歳をとってからのもう一つの違い。

それは夢や目標をが持てるかどうかということです。

若いころにはたくさんの夢や目標があります。

将来への不安はありますが、その不安と同じくらいの夢がある。

よく、若い人で「自分には夢も目標もない」という人がいます。

夢がもてないのは社会のせいだと。

目標がもてないのは、自分の境遇のせいだと。

しかしそれは違います。

若いのに夢や目標がないのは、それは誰かが与えてくれると思っているからです。

夢や目標は誰かが与えてくれるものではありません。

じっと待っているだけでやってくるものではないのです。

そうして夢を探そうとしない人たちはつい不安ばかりに気を取られてしまいます。

せっかく夢という不安を取り除く武器があるのに、それ手に入れようとしない、夢がもてないのは会社のせいではありません。

目標が見つからないのは、あなたの才能や境遇のせいではありません。

それはあなた自身の心のせいなのです。

では、歳をとれば夢や目標は失われていくのか、そんなことは決してありません。

確かに色々な可能性は少なくなっていくでしょう。

残された時間も減っていく。

それでも夢の質は変わりますが、夢が消えうせるというということは絶対にありません。

どんな小さな夢でもいい、まずはやれることから初めて自分なりの目標を見つけること。

夢には大きいもの、小さいものもありません。

また、それは他人と比較するものでもないものです。

自分が持った夢に対して正直に生きることです。

恐らくは達成できないような夢を持ってもいい。

家族から「そんな大きな夢をもつなんて」と言われえもいい。

例え達成できなかったとしても、その夢に向かって走り続けていく。

その走り続けていくことの中に、人生の幸福がたくさん散らばっているのです。

さらに、言うならば、その夢を友達と語り合ってください。

同じ夢や目標を持つ者同士で、夢について語り合ってください。

「こんな社会貢献をしたい」「自分のキャリアをこんなふうに役立てたい」「若い人たちにこういうことを伝えたい」など。

そう語り合う友を持つことです。

互いに夢を語らうことで、いつしか夢は具体的な目標となって姿を現してきます。

「夢物語」は言葉にすることで現実味を帯びてきます。

そして自分がやるべきことがどんどん明確になっていく。

こうなれば、「余生」などという悠長なことは言っていられなくなるでしょう。

人間は生きている限り、夢を追いかけなければならないと思います。

追いかける夢を失うことが、人間にとって一番苦しいことなのです。

ほんの小さな夢であっても、それを追いかけている時には、余計な不安は露出しません。

夢に向かって走り続ける人には、通り過ぎる不安の種は目に入らない。

目を背けているのではなく、目に入らないのです。

あなたの心に浮かぶ、その不安の9割は「今、に集中し行動すること」で消せるのです。

そして一つの夢のカケラを見つけたら、それを言葉に出してアウトプットすることです。

「私には今、こんなゆめがある」と。

言葉にした瞬間に夢には魂が吹き込まれます。

魂が吹き込めれれた夢や目標はどんどん形をなしていく。

その小さな夢の魂がキラキラと輝き始めたとき、あなたの第二の人生が始まります。

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人生には何となくではありますが、指標なような道筋があります。

例えば、現代社会では高校や大学を卒業すれば、どこかの会社に就職する。そして20代の後半から30代前半には結婚して自分たちの家庭を築く。

子どもを育てるために一生懸命働き、子どもを一人前にして世の中に送り出す。

その後は再び夫婦二人になり、やがてはどちらかが先に旅立っていく。残された者は一人静かに暮らしながら、お迎えがやってくるのを待つ。

人間の一生というものに敷かれたゆるやかなレール。そんなものが漠然とあるような気がします。

これが「普通」のレールなのだと。

そして、もしそのレールから外れたとしたら、そこに「不安」というものが生まれてきます。

自分はもう40歳なのに、まだ結婚をしていない。

早くに結婚したけど、子どもを授かることができない。

あるいは、せっかく大学を卒業したのに未だ就職先も見つからない。

自分はもう、人生のレールから外れてしまったのだと。

他人と違うことへの不安。

「普通」ではない自分に対する情けない思い。

そんな気持ちが波のように押し寄せてきます。

世の中ではよく「普通」とか「平均」という言葉が使われます。

あたかもそれが正解で、普通でない事はいけないように捉えることがあります。

では聞きたいのですが、「普通」とは何ですか?

「平均」の中にいないことは悪いことなのでしょうか。

それらは全く実態のないもので、本来は「普通」と自分を比較することなどできないのです。

人間は比べたがる生き物です。

隣の人と比べ、同じ境遇の人と比べる。

それは無意味なことではありますが、ある意味どうしょうもないことです。

ただし、隣の誰かと比較するのはまだしも、実態のない「普通」や「平均」と比較することは、自分で自分の首を絞めるようなことだと思います。

子育て世代では、よくこのようなことを耳にします。

産まれた赤ちゃんはおおよそ10か月でつかまり立ちを始めます。

1歳を過ぎれば、よちよち歩きができるようになります。

これが成長過程の「平均値」として示されています。

この「平均値」ばかりに縛られて必要以上に神経質になる親がいるといいます。

「うちの子はもう11か月なのに、まだつかまり立ちをしていないんです。どこか体の機能が悪いのでしょうか」

そんな心配を抱えて病院に来る親も多いとのことです。

さすがに2歳を過ぎてもつかまり立ちができないのであれば、それは不安になるでしょうが、少し平均値から遅れたぐらいで心配するのは行き過ぎではないでしょうか。

あるいは、小学校の1年生になれば、いろんなデータが目の前に現れます。

平均身長、平均体重、学力テストの点数、50m走は何秒など数値化されるものが多く、いかにもそれが正しいかのように思わせてしまう。

しかし、実はこれらすべての平均値に合致している子どもは一人たりともいません。

社会には、こうした実態のない平均値があふれています。

結婚平均年齢や出産平均年齢、子どもの数は平均1.5人だとか、平均年収は何百万だとか。

よほど人間は他人と比較し、それを平均値として数値化し「これは勝っているとか、負けているとか」とにかく平均値が大好きなのです。

勝っているものに対しては喜び、負けてしまっているもににはコンプレックスを持ったりする。

そればかりか、普通ではない自分が不安になってくる。

全く余計な不安だと思いませんか?

それらを一つの指標として冷静に見るのならいいですが、そこにとらわれてしまっては、それこそ自分の人生を歩めないことにもつながります。

目指すべきものは「普通」でも「平均」でもありません。

自分だけの人生を歩むこと。

それを目指す事が大切なのです。

世の中にあふれている「普通」に惑わされてはいけないと思います。

もしも、自分は結婚しないで、一人で生きていくと決めたのであれば、それがその人自身の「普通」なのです。

平均収入より低いけれど、自分はこの仕事を続けていくのだと決めたのであれば、それがその人の「生業」です。

大切なことは自分自身の心で、決めること。他人の助言は受けても最終的には自分が決めることが大切です。

自分を信じて人生の選択をしていけばいいのです。

人間は一人ひとり違う存在です。

人間の数だけ選択肢があり、人間の数だけ生き方があります。

どんな選択をしようが、どんな道を歩もうが、自分自身で考え抜いて決めたものである限り、すべては正解だと思います。

自分はこういう人生を歩むことを決めた。誰が何と言おうが、自分はこの道を選ぶ。心を固めて人生を歩いていく。

しかし、その途中には後悔の念に襲われることもあります。

もっと別の選択があったのではないだろうか。

やはり、あのとき別の道に行っておけばよかった。

後悔の念が次々に湧き上がってきます。

それは当たり前のことです。

後悔のまったくない人生などありません。

どんなに強い信念を持っても、どんなに自分を信じて道を選ぼうが、後悔というものは必ずつきまとってくるものです。

自分が選択した道に対する後悔。

すべての人間は多かれ少なかれそれを抱えながら生きています。

いかに自信満々に見える人でも、心の奥底には小骨のような後悔がたくさん突き刺さっている。

そして、この後悔の気持ちがあればこそ、人は一つずつ成長の階段を上ることができるのです。

自分自身が選んだ道への後悔はかまいません。

ただし「普通」や「平均」を意識して導き出された後悔は、重く暗い後悔として心に残ってしまいます。

実態のないものと比べることは、実態のない道を歩くようなものだからです。

もしも、今あなたが「普通」と比べて不安になっているとしたら、もう一度よく考えてみてください。

「普通」とは、一体何か、それは実態のないものです。

実態のないものに後悔をしても自分自身が苦しくなるだけです。

次に「知識が不安を生み出す」ことについて述べます。

知識が偏重される時代になりました。膨大な情報が押し寄せる中、それを知識によって眺めていく。

それは決して悪いことではありませんが、知識に偏り過ぎる裏面で、知恵が失われているように感じます。

先日ある20代の男性と話をしました。その男性には長年付き合っている女性がいます。

将来は結婚を約束した仲です。

結婚することは心に決めているのですが、今はなかなか踏み切れないというのです。

理由を聞くと経済的な問題でした。

まだ給料が安く、月に20万円しかありません。

二人で稼げば40万になりますが、子供ができたら彼女は仕事を辞めなければならない。

すると今の20万では生活することができないと。

給料が20万だとしてマンションを借りれば10万はかかる。

食費は削っても5万はかかる。

その他光熱費やら雑費を計算したら、とても生活できないということです。

確かに現実的ですが、どうも知識ばかりで考えているような気がしました。

何にいくらかかるから、これでは給料で賄えないと。

そうではなく、知恵を働かせてみてはどうでしょうか。

家賃に10万かかると決めてかかっていますが、何も10万のマンションに住む必要はありません。

5万のアパートでも良いのです。

また、食費についても自炊を毎日行えば月に5万もかかりません。

それでしばらく共稼ぎをして、子どもが生まれたときのために蓄えを作っておけばいい。

今、大切なのは10万のマンションに住むことではありません。

二人で一緒に住むことが一番大切なことなのですから、そこに焦点を合わせて知恵を出していけばいいのです。

大切なのは「知識単体」ではなく「知識を振り絞った知恵」なのです。

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不安とは実態のないもの。

私たちの心が作り出すものです。

その実態のないものに、脅え、苦しんでいる。

実態のないものと向き合っても仕方がない。

自らの心で作り出すものであるから、ただそれを止めればいいだけです。

しかし、事は簡単にはいきません。

実態がないものだとわかっていても、不安をわざわざ作るなと言われても、やはり不安は日々、私たちを襲ってきます。

振り払おうとしても、そこから目を背けようとしても、次から次に新たな不安は芽生える。

生きるとはそういうことなのです。

大きな不安はなくても、小さな不安は誰にでもあるものです。

あっという間に通り過ぎていく不安もあれば、忘れてしまうほど小さなものもある。

あるいは、ときどき顔を出してくる不安もあれば、常に心にトゲのように刺さっているものもあるでしょう。

それらすべてを取り払うことは不可能です。

全ての不安が消えてなくなるのは、命がなくなったときです。

生きている限り私たちは不安と付き合っていかなければなりません。

そうであるならば、せめて心が抱え切れないほど大きくならないようにすることです。

人間はたった一つの悩みでだけで死を選ぶことはありません。

会社をリストラされた。ただそれだけでの理由で自殺する人はいないということです。

重い病気を先刻された瞬時に死を選ぶ人もいない。

リストラされたという現状を前にして、そこから果てしなく不安感を増幅させてしまう。

単純に考えるなら、会社をリストラされたのなら、また別の仕事を探せばいいだけです。

多少給料が下がろうが、これまでの仕事と別の仕事であろうが、本気にさえなれば仕事は見つかるはずです。

余計なプライドを持つことなく、これまでの仕事に執着しなければリストラなど大きな問題になりません。

ところが、多くの人たちは、リストラされたことでまるで全人格を否定されたような錯覚に陥ります。

「もう自分は、生きている価値がないんだ。」と。

そして次の仕事にも強いこだわりを持ってしまう。

「こんな仕事は自分がやるべき仕事ではない」「こんな給料ではプライドが許さない」「やったことがない仕事で不安だ」等々、自分の過去と仕事に執着しているのです。

そうして、自分で自分を追い詰めていくうちに、どうんどん不安感は募っていきます。

まるで雪だるまのように、転がりながら不安が大きくなっていきます。

悪い方へ悪い方へと気持ちが向かってしまう。

そしてついには、その大きさに心が耐え切れなくなってしまうのです。

このときの実態とは、リストラされたということだけです。

会社を首になったからといって、命まで取られることはありません。

まして、リストラが人格否定に繋がるはずもない。

たまたま、社会情勢が悪かったり、会社の実績が悪かっただけのこと。

会社は人生のほんの一部であり、全てを占めるものではありません。

その実態とはほんの小さな石のようなものです。

その小石をいたずらに転がしていまうから、大きな雪だるまになってしまうのです。

「このままずっと、仕事がなかったらどうしよう。」

「1年も2年も次の就職先が見つからなかったらどうしよう。」

そんな不安に襲われることもあるでしょう。

そんな弱音は誰しもが持っています。

それでも、それは全く無駄な悩みです。

そんなことにくよくよしている時間があるならば、まずは行動を起こすことです。

やたらと不安感にさいなまれる人を見ると、そのほとんどは動かずにじっとしていることがわかります。

仕事が見つからないと言いながら、家でじっとしている。

あるいはパソコンや雑誌などを眺めながら仕事を探している。

もしくは誰かが何とかしてくれるかもしれないと期待しながら、ただ待っているだけ。

そんなことをしていくうちに、自分の体に雪が降り積もってしまいます。

自分が動かずして周りが動くことはありません。

自分が動かなければ、周りの状況も変わることはありません。

まずは自分が行動することです。

やれることは全てやってみる。

どんな小さなことでもいいから、家を飛び出して行動してみる。

一歩踏み出すことで、大きく状況が変わってくる。

今というこの瞬間だけを見据えて、できることからはじめることです。

人間は、行動しながら悩むことはできません。

前を向いて走りながら、あれこれと考えることはできません。

立ち止まってしまうからどんどん余計な不安が生まれてくるのです。

走り続けている人は、雪に埋もれることはないのです。

そばにある不安の雪だるまを転がすのではなく、自分自身が行動する事が大事だと思います。

漠然とした大きな不安を前にしたとき、私たちはそこから逃れる術を知りません。

そもそも実態がないのですから、逃れる術などあるはずもない。

自分の力量を超えたものに対しては、私たちは無力でさえあるのです。

そうであるならばいっそ、その不安とやらに付き合ってみることです。

この世で起きていることすべてのことは、自ら運び動いています。

例えば春になれば草木が芽生え、夏に向かって花を咲かせます。

そこにはたくさんの虫や鳥が集まってきます。

これらすべては、自然の移ろいの中のこと。

つまりは、大きな1つの流れに乗っているのです。

人間もまた同じように、この自然の流れに身を任せ「あるがまま」を受け入れて生きることです。

どうしょうもないことは、自然の流れに逆らうことなく身を任せてしまう。

不安というものも、同じだと思います。

もちろん、自分の努力によって払拭でくるものは、自分で取り除くべきです。

しかし、それが自分の力ではどうしょうもないことであれば、いっそ不安を受け入れてしまうことです。

かたくなに立ち向かうのではなく、やわらかく受け止めてしまう。

「まあ、こんな不安があるのも仕方ないなと。」

そして受け入れた後にはそこに心を止めることなく、さっと脇に流してしまうことです。

「リストラされたらどうしよう」「老後の生活費がなくなったらどうしよう」「重病に侵されたらどうしよう」など、起きてもいない不安に襲われることがあります。

何か根拠があるわけではないですが、もしかしたらと悪いほうに考えてしまう。

「マイナス思考」が多い人と少ない人がいます。

「マイナス思考」は自分だけが持っているのではなく、みんなが持っています。

それを認めるだけでも少しは気分が楽になります。

そして、冷静になって考える。「もし、リストラされたらどうしよう」という不安が横切ったら、その不安と正面から向き合えばいい。

「そうだな、確かにそれは不安だな」と正直に受けとめればいい。

敢えて払拭しようとはせず、自分の心の中にはそんな不安があることを認めてしまえばいいのです。

その上で次の段階に気持ちを巡らせるのです。「そうであるならば、もしリストラされたら自分は何をすればいいのだろう」と。

次の仕事はどうしようとか、家のローンはどうしようとか、教育費はどうしようかとか具体的に不安をあぶりだしてみて下さい。

そうしているうちに、やがて気づきます。

「来てもいない将来の不安に対して、自分は何をくよくよしているのか」と。

いかにバカげたことを考えていたことに気がつきます。

そして自分自身に「あ、いいや。そうなったらそのときに考えよう。」

これが不安を抱えない人の性格であり、ポジティブな考えです。

「そうなってから考えよう」これが不安に対処する処方箋の目玉商品です。

あれこれと思い悩むのではなく、不安が現実になってから考えればいい。

現実にならなければ過去に、あれだけ脅えていた自分はどうなのでしょうか。

非常に苦しい思いをして、全く人生でもっったいない時間を過ごしていたことになります。

大切なのは未来のこと(前向きなことは除く)をあれこれネガティブに考えることをやめて、今日、今という一瞬を一生懸命生きることです。

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私が尊敬している枡野俊明氏の教えを書いてみます。

人間には108の煩悩があると言われています。

どうして108なのかは不明ですが、いずれにしろ私たち人間は、たくさんの煩悩に包まれながら生きているということです。

仏教に「トン、ジン、チ」という三毒があります。トンとは貪りの心です。

何でも欲しがり、自分の要望が赴くままに貪る心。

1つを手に入れても満足することなく、どんどん強欲になっていく。

物欲ばかりではなく、誰かの心までも手に入れようとする。

行き着く先には決して心からの満足感がありません。

貪りの心は増幅していく一方なのです。

「ジン」とは怒りの感情を表す言葉です。

些細なことで怒りを覚え、その感情を相手にぶつけたり、心の中に閉じ込めておくことができず、すぐに表面に出してしまう。

怒りの感情を出せば出すほど、怒りは増幅を繰り返し相手の心を傷つけますし、実は自分自身も傷つけているのです。

「イライラいたときや、怒りが湧いてきたときには、茶碗でも割ればスッキリする」とはよく言われてきたことです。

怒りを相手ではなく、物にぶつけることによって解消させると。

「ああ、すっきりした」と感じると思うでしょうけど、実はこれは全くの嘘なのです。

怒りの感情は物に当たっても消えてはくれません。

それどころか、茶碗を割れば割るほど怒りの感情は高まっていきます。これは心理学でも証明されています。

「怒りが怒りを呼ぶ」のは、怒りの感情が出たときに、脳内物質アドレナリンが分泌されますが、このアドレナリンには記憶増大作用もあります。

脳科学的に考えても、「怒りが怒りを呼ぶ」というのは間違いないことです。

もしも、茶碗を割ってスッキリするような怒りであれば、それは大したものではありません。

本当の怒りとは、表面に出せば出すほど増幅していくものなのです。

心の中に閉じ込めて、少しずつ気持ちをほぐしていく。

薄らいでいくことを時間に委ねて行く。

それが「ジン」という「毒」に侵されない方法なのです。

そして、3つ目の「毒が「チ」というものです。

これは「おろかさ」をあらわしています。

常識や道徳を知ることなく、教養が欠けている様を言っています。

やってはならないことだと分かっているもに、ついやってしまうこともある。

やらなければならないことだと頭ではわかっているけど、ついそこから目を背けてしまうこともある。

自責の念に駆られながらも、自らのおろかさを嘆きながらも、心とは正反対の行動をとることもある。

人間はいつも「三毒」を抱えながら生きている。

そここから逃れることはできないのです。

一生をかけて向き合っていくしかないのです。

こうした「三毒」が日常の隅々まで入り込み、それが108個の煩悩となって私たちを苦しめているのです。

できる限りの「三毒」を取り払い、体中にまとわりついている煩悩を消し去っていくことが必要になります。

煩悩や欲望が、全て悪いということではありません。

もしも欲望をすべてなくしてしまえば、私たちは生きていくことさえできません。

例えば食欲という欲望があります。

もし、この食欲がまったく失われたとしたら、命を維持することはできません。

生きていくために必要な欲望が人間には備わっている。

ただ、この食欲が増殖を繰り返せばどうでしょう。

「腹八分」で満足することなく、これこそ貪るように食べ続ける。

一汁一葉で体は満たされるはずなのに、心がそれでは満足しない。

もっと美味しいものを食べたい、もっとたくさん食べたい。

その繰り返しで体は醜くなり、体に不要な負担をかけることになる。

「生きるための食欲」がいつしか「命を削る食欲」に変わるかもしれません。

あるいは、出世をしたいという欲望。

もっとたくさんお金が欲しいという欲望。

そんな欲望は持っていて当たり前のことです。

それは向上心にも繋がりますし、自己成長にも繋がるからです。

ただし、これも食欲と同じで、行き過ぎることで自らを苦しめることにもなります。

出世欲に執着するあまり、それ以外のものが見えなくなっていく。

自分の出世のためなら、他人を傷つけることなど何とも思わないようになる。

たくさんのお金を手に入れるためなら、どんな手段でも講じるようになる。

貪る心ばかりが前面に出て、優しさや思いやりといった気持ちを忘れてしまう。

それは決して幸せではありません。

もともとは幸せになるためにお金が欲しいと思っていたのが、いつしかお金のために幸せを放棄するようになる。

それはとても悲しくさびしい人生だと思います。

もしも、あなたが欲望の虜になっているとしたら、そしてそこから逃れたいと思うのであれば、あなたの欲望をたった1パーセント捨ててみてください。

たった1パーセントでかまいません。

例えば服が好きで、たくさんの服をもっている女性がいます。

クローゼットの中にはたくさんの服が眠っています。

お気に入りのものもあれば、バーゲンなどで衝動買いをしたものもあります。

せっかく買ったのに、一度も着たことがない服もあります。

こんなにたくさん持っているのに、店に素敵な服があれば、またそれが欲しくなり買ってしまう。

貪りの欲望が顔を出し、身の丈以上のものを次々とカートに入れてしまう。

しかし、それによって満足感が持てるのは買ってから家に帰る時間までだけです。

家に帰ってクローゼットにしまえば、そこで満足感は一気に薄れてしまいます。

まさに、欲望という幽霊に支配された行動だと思います。

そんな状態からどうすれば脱出することができるのか。

もしも100着洋服を持っているのであれば、その1パーセントである1着を手放してみることです。

10着を一気に手放すのは難しいと思いますから、1パーセントの1着でいいのです。

お気に入りのものを手放す必要はありません。

100着もあれば「これなら他人にあげてもいいかな」というのがあるはずです。

それを手放してください。

100着あるうちの1着だけを手放す。

残った服はまだ99着もある。

数字だけを見ると大した変化はないでしょうが、この1着が非常に重要なのです。

絶対に手放すことはできないと自分自身で信じ込んでいる。

洋服は自分にとって命の次に大事だと思い込んでいる。

絶対に手放せられないと。

しかし、思い切って1着を手放すことで、それまでの執着心は薄れていきます。

これまでは絶対に手放すことができないと思っていたのに、やってみればできるものだ。

少しだけ手放したところで、自分の生活や生き方に何ら変化がない。

それどころか、1着手放すことにより、その他の不要なものも目に入ってきます。

いかに自分が無駄遣いをしていたか、いかに服に執着していたかに気づかされるのです。

そしてやがて「もうこれ以上の洋服はいらないな」と気が付くことができるようになります。

このとき、心は解き放たれ、物欲という執着から自由になることができます。

もしも、1着さえも手放すことができなければ、その人は洋服への執着と一生付き合っていくしかありません。

1つの物に執着することで、他の大事なものが目に入らなくなります。

物欲ばかりに目がくらみ、真に心を豊かにしてくれるものを見失ってしまいます。

1パーセントという数字をどう捉えるか。

たった1パーセントと捉えるのか、それとも人生をも変える1パーセントと捉えるのか。

1パーセントを意識することで、生き方は大きく変わると思います。

ほんの少しのことを大切にする、少しくらいのことと軽んじないで小さなことに目を向ける。

それこそが、人生を豊かに変える大きなきっかけだと思っています。

毎朝、10分だけ早起きして、静かに座ってお茶を楽しむじかんを作ってください。

時間ギリギリに起きて、アタフタとパンをかじりながら家を飛び出していく。

そういう生活からは、心の余裕は生まれません。

家から駅に向かうのも、ゆったりとした足取りで歩く。

慌てて小走りで行くのとゆっくりと歩くのとは時間にしたら数分にしか違いません。

しかし、この数分の違いが心の余裕にとってはとても大事です。

1日は24時間、1440分です。この10パーセントは140分。

これは長い時間になります。

しかし1日の1パーセントであれば14分です。

睡眠時間が8時間だとしたら、起きて活動しているときの1パーセントは約10分。

この約10分だけ、早起きをしてみましょう。

この約10分で静かに心を落ち着かせ、今日やるべきことを考えてみる、昨日の自分の姿を想像してみる。

そんな小さな時間が、その日のあなたを幸せに導いてくれます。

あなたを取り巻いている全てのものの1パーセント、そこに目を向けてください。

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不安の9割は起こらないという統計があります。

この一言で大分心が楽になります。

人間が不安で仕方がないときは「偏見的」なものの捕らえ方をしていることが多いです。

客観的に、論理的に考えることが大切です。

私が大事にしているニュートラルな考えです。

偏見的になっているのを戻し、客観的に考えるのは「ノート療法」がとても効果的です。

ノートとボールペンで左にネガティブなことを書き、右にポジティブなことを書いていきます。

後にそれを振り返ったときに、自分のかんがえの歪みに気が付くことができます。