漠然とした将来に対する不安感。
つかみどころのない雲のような不安感。
それは年齢に関係なく私たちを襲ってくるのです。
言うなれば、そのような不安感は20代の人も40代の人も、60歳を過ぎた人の心にも襲ってきます。
具体的な不安材料は変わってくるのかもしれませんが、その本質は年齢によって変わるものではありません。
とは言っても、やはり若いころには不安に対する耐性は強いものです。
同じような漠然とした不安を抱えていても、若いころにはそれを跳ね返す力があります。
では、その不安を跳ね返す力とは何なのでしょう。
体力や気力というものも、もちろんあります。
しかし一番の力は、目の前にやるべきことがたくさんあるという現状だと思います。
将来の自分がどうなるのか、幸せな人生を歩むことができるのか。
若いころにも時としてそんな不安が襲ってきます。
しかし、その不安とばかり付き合っている暇などありません。
ふと不安が襲ってきたとしても、明日になれば会社に行かなければならない。
やるべき仕事が山積みしている。
こんな雑事の中に、いつしか不安は埋もれてしまう。
決してその不安がなくなったわけではありませんが、とりあえずは考える時間は減っていきます。
夜になってふと不安になったとしても、明日の朝には子どもたちのお弁当をつくらなければならない。
あれこれと不安材料を考えているより、まずはお弁当の中身を考えなければならない。
そんな日常生活の中に、不安は少しずつ埋もれていく。
やるべきことが目の前にある、これが若いころの特権であり、幸せなことだと思います。
ところが歳を重ねていくごとに、どんどんやるべきことが減っていきます。
子どもたちは独立し、家の中には夫婦だけになる。
まして会社を定年退職すればやるべき仕事はすっかり消えうせてしまう。
会社にいたときには、やるべき仕事に追われる毎日で早くそこから開放されたいと願っていたのに。
ところが、いざ仕事から解放されると、何もやるべきことをもたない自分に気が付く。
何かとても大切なものを失ってしまったかの如く、漠然とした不安が一気に吹き出てきます。
これは、あらたに生まれてくる不安ではありません。
もともと心の中にあったものが、持て余した時間で噴出してきただけなのです。
「やるべきことがない」これは人間にとって最も辛いことの一つです。
どんなに辛い仕事でも、やるべきことがあるというのは幸せなことです。
辛いことに立ち向かうことで、生きていることを実感することができる。
やるべきことがないということは、生きている実感さえも奪ってしまいます。
そして「暇」な時間が余計なことを考えさせることになる。
やがて漠然とした不安感に心が蝕まれていきます。
余生の不安を消し去る。
「余生」という言葉が多く使われています。
もう仕事もせずに、社会の活動に参加することもなく、ただ死んでいくのを待っているだけの時間。
余りの人生。
そんな意味が込めれれた言葉です。
人生の中で「余生」などという時間はありません。
余りの人生などあるはずがない。
会社は定年退職しても、人生に定年はありません。
もしも、人生に定年退職があるとすれば、それは「寿命」が尽きたとき。
すなわち死を迎えたときです。
命のある限り、私たちは生き抜いていかなければなりません。
「余生」という言葉を隠れ蓑にして、ただ漫然とした人生を送る。
それは本人だけでなく、周りの人間も幸せにはさせない。
自分がやるべきことは何か、まずはそれを見つけ出すことです。
これまでの「やるべきこと」は会社から与えられたものでした。
あるいは家族を守るために必要なものでした。
外から「やるべきこと」を与えられることに慣らされていた。
しかし、今度は自分で「やるべきこと」を探す努力をすることです。
そのために、これまでの考え方からの方向転換を図ることです。
これまでの仕事には明確な目的がありました。
第一には仕事をすることによって、生活費を獲得することです。
少しでも給料が上がるように努力する。
家族を守るために頑張る。
あるいは会社の中で評価されるために頑張る。
そこには、明確な目的意識があったはずです。
60歳も過ぎれば、この目標を少し変えてみることです。
自分だけのためではなく、自分の家族のためだけではなく、社会のために尽力してみる。
全てを投げ打って社会に尽くすということではありません。
自分が持っているほんの一部の力を社会貢献のために使うこと。
仕事の対価を100望むのではなく、70になってもいい。残りの30は社会貢献として考えることです。
定年退職後にボランティア活動に精をを出す人たちもたくさんいます。
その気持ちはすばらしいと思うのですが、私はなにがしかの対価を得る方がいいと思います。
ボランティアだけではなかなか長く続くものではありませんし、またお金が一切介入しないことは、美しいように見えますが社会に対する責任感が薄れていってしまいます。
金額は少しでもいいですから、対価を得るということが気持ちに張りを生むことになるのです。
「どうして働くのか」と聞かれたとき、若いころなら「自分の生活を豊かにしたいから」と答える、それは当然のことです。
自己中心的な答えにも思えますが、若いころにはそれでかまわないと思います。
しかし、60歳を過ぎて同じ問いかけをされたならば、そこには若いころとは違う答えを持っていなければなりません。
「自分の生活も大事ですが、半分は社会貢献への恩返しをしたい」と。
こう思える気持ちが、人生を豊かなものにしてくれる。
すべての自利をすてることはできなくても、他利の部分を少し増やしていく。
そういう考えに方に変わったときに、新たな「やるべきこと」が見えてくるはずです。
そして、目の前に「やるべきこと」が見え始めたとき、漠然とした不安は心の陰に隠れていくのです。
若いころと歳をとってからのもう一つの違い。
それは夢や目標をが持てるかどうかということです。
若いころにはたくさんの夢や目標があります。
将来への不安はありますが、その不安と同じくらいの夢がある。
よく、若い人で「自分には夢も目標もない」という人がいます。
夢がもてないのは社会のせいだと。
目標がもてないのは、自分の境遇のせいだと。
しかしそれは違います。
若いのに夢や目標がないのは、それは誰かが与えてくれると思っているからです。
夢や目標は誰かが与えてくれるものではありません。
じっと待っているだけでやってくるものではないのです。
そうして夢を探そうとしない人たちはつい不安ばかりに気を取られてしまいます。
せっかく夢という不安を取り除く武器があるのに、それ手に入れようとしない、夢がもてないのは会社のせいではありません。
目標が見つからないのは、あなたの才能や境遇のせいではありません。
それはあなた自身の心のせいなのです。
では、歳をとれば夢や目標は失われていくのか、そんなことは決してありません。
確かに色々な可能性は少なくなっていくでしょう。
残された時間も減っていく。
それでも夢の質は変わりますが、夢が消えうせるというということは絶対にありません。
どんな小さな夢でもいい、まずはやれることから初めて自分なりの目標を見つけること。
夢には大きいもの、小さいものもありません。
また、それは他人と比較するものでもないものです。
自分が持った夢に対して正直に生きることです。
恐らくは達成できないような夢を持ってもいい。
家族から「そんな大きな夢をもつなんて」と言われえもいい。
例え達成できなかったとしても、その夢に向かって走り続けていく。
その走り続けていくことの中に、人生の幸福がたくさん散らばっているのです。
さらに、言うならば、その夢を友達と語り合ってください。
同じ夢や目標を持つ者同士で、夢について語り合ってください。
「こんな社会貢献をしたい」「自分のキャリアをこんなふうに役立てたい」「若い人たちにこういうことを伝えたい」など。
そう語り合う友を持つことです。
互いに夢を語らうことで、いつしか夢は具体的な目標となって姿を現してきます。
「夢物語」は言葉にすることで現実味を帯びてきます。
そして自分がやるべきことがどんどん明確になっていく。
こうなれば、「余生」などという悠長なことは言っていられなくなるでしょう。
人間は生きている限り、夢を追いかけなければならないと思います。
追いかける夢を失うことが、人間にとって一番苦しいことなのです。
ほんの小さな夢であっても、それを追いかけている時には、余計な不安は露出しません。
夢に向かって走り続ける人には、通り過ぎる不安の種は目に入らない。
目を背けているのではなく、目に入らないのです。
あなたの心に浮かぶ、その不安の9割は「今、に集中し行動すること」で消せるのです。
そして一つの夢のカケラを見つけたら、それを言葉に出してアウトプットすることです。
「私には今、こんなゆめがある」と。
言葉にした瞬間に夢には魂が吹き込まれます。
魂が吹き込めれれた夢や目標はどんどん形をなしていく。
その小さな夢の魂がキラキラと輝き始めたとき、あなたの第二の人生が始まります。